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奇跡を期待しよう




■奇跡を期待しよう
(聖書個所) 「創世記 24章 1節〜25章34節」

「あなたが私にとどまり、私の言葉があなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」 (ヨハネ 15:7)



私たちが、今年を奇跡の一年にするために、しなければならない事は、神の奇跡を期待することです。私たちは、神が万物を造られた創造主であることを信じ、また、私たちの持ち物を奉げて信仰の種を蒔いたとしても、「奇跡なんて本当に起こるものだろうか?」と考えるなら、何の奇跡も起こりません。私たちの神が、すばらしい神、創造主であり、奇跡を行われる神、また健康を与えて下さる神であると信じ、その神が私たちの生活の中に奇跡を起こされることを期待する、正にその時、奇跡はやってくるのです。

ある父親に二人の息子がいました。長男は父の言葉に従順に従って家の仕事を助け、良く働きましたが、次男は自分の遺産を持って出て行き、放蕩の限りを尽くして、遺産を全部使い果たしてしまいました。まもなく次男は、乞食のような身なりで父の元に帰るはめになりました。その時、こう考えました。「私は父の家に帰ってこう言おう。お父さん、私は天とお父さんに罪を犯しました。

これからはお父さんの息子と呼ばれる資格がありませんから、私をしもべの一人として下さい。」そして父が自分をしもべとして使ってくれることを望み、期待しました。この次男は赦される事のできない放蕩息子であったにも拘わらず、彼には期待があったため、父から溢れるばかりの愛と赦しを受けました。彼はこの期待のおかげでしもべではなく、息子として、金の指輪や新しい服を与えられ、肥えた雄牛の料理でひもじかったお腹を満たしました。

しかし、長男はそうでありませんでした。彼は賢く、従順で、勤勉でありましたが、肥えた雄牛どころか山羊の子一匹もらえませんでした。単純に考えるとこんな不公平な事はありません。そこには十分な理由があったのです。長男が肥えた雄牛をもらえなかったのは、彼はこのようなものなどは期待する気持ちが無かったからです。奇跡を期待する信仰と、期待しない信仰の差はこのように思いもよらぬほどの違いがあります。

主なる神を信じる人々は、人間の力で生きるのではありません。十字架はプラス(+)の標しです。皆さんがイエスを信じて奇跡を期待するならば、イエスの十字架の血潮のいさおしにより、皆さんの計画や期待の上に神の能力がブラスされるのです。ですから、皆さんも、信仰の種を蒔いたら、次は神の奇跡を期待される事を望みます。















マザーテレサ 愛のことば

 
NO.04007