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1月13日


■ 真二つに裂けた神殿の幕

「マルコの福音書 15章33節〜38節」
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。
15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。


十字架に釘付けられたイエス様が、大声で「完了した。」と言われて息を引き取られると、エルサレムの神殿の聖所と至聖所の間をさえぎっていた幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その結果、大祭司しか入ることができなかった至聖所に、すべての人々が入れるようになりました。

それでは、神殿の幕が真二つに裂けた事件は、私たちにどのような意味があるのでしょうか。

至聖所は、神様に背き、離れて行った旧約時代の人々を救うための場所でありました。アダムとエバが神様に罪を犯して、エデンの園から追い出された後にも、人間には神様を捜し求める心が残っていました。そのような人間の心を知っておられる神様は、モーセに幕屋を建てさせ、幕屋の真ん中に幕を垂らせさせて、幕の内側にある至聖所におられました。このように、至聖所は罪を犯した人間が除いて見ることができないように幕で隠されており、毎年、罪の贖いのいけにえを捧げる日に限ってのみ、大祭司がいけにえの血を持って入って、罪の贖いのいけにえを捧げた所です。

幕が二つに裂けた事件の意味は、大祭司を通してだけ神様に出会うことができた人間が、神様に直接お会いする道が開かれたということです。神様は、イエス様をこの地に遣わして、人類の罪を代わりに負い、十字架につけられて、血を流して死なせることにより、この道を開いてくださいました。幕が裂けて、神様がおられる至聖所が全ての人に開かれたように、体を裂かれて死なれたイエス様を通して、私たちは「我が道となられるイエス様」の御名に拠り頼んで、神様の御前に大胆に出ることができるようになり、神様は、イエス・キリストを救い主として受け入れた私たちの霊の中におられるようになったのです。

ところが、数多い人々が未だに救われずに、依然として呪いの束縛の中で苦しんでいる理由は、人間の霊と心を隠している幕を取り除かなかったからです。ですから私たちは、イエス様がすでに十字架の上で私たちのために、罪と呪いと病と死の幕をすべて取り除かれた事実をはっきりと悟って、神様が準備しておかれた「たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康な人生」を生きて行かなければなりません。




お祈り

イエス様が十字架の上で死なれたことで、神様の御前に出て行くことができる新しい道が開かれたことに感謝します。主よ!今日も瞬間瞬間、私たちの心を聖殿として来られる神様にお会いすることができる祝福を与えてください。 イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!