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7月19日


■裁判とは何でしょうか

「歴代誌 第二 19章 4節〜7節」
19: 4 今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行ないなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」
19: 4 さばきつかさたちにこう言った。「あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。この方は、さばきが行なわれるとき、あなたがたとともにおられるのです。
19: 4 さらに、彼はこの地、すなわち、ユダにあるすべての城壁のある町々にさばきつかさを立て、町ごとにこれを任命し、
19: 4 ヨシャパテはエルサレムに住んだ。それから、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中へ出て行き、彼らをその父祖の神、主に立ち返らせた。




ユダのヨシャパテ王は、ダビデの道に歩んだ立派な信仰の人でありました(歴代誌第二17:3参照)。彼は心を尽くして主の道に歩み、邪神の祭壇とアシェラ像を取り除き、審き司たちを派遣して民たちに律法を教えました。ところが、このようなヨシャパテ王が、神様に敵対していたイスラエルの王アハブを助けてアラム族と戦争する愚を犯しました。しかし、この事に対して先見者エフーが戒めるや、彼は謙遜に先見者の言うことを聞き入れ、もう一度、宗教改革を図りました。

先ず、ヨシャパテ王はベエル・シェバからエフライムの山地に至るまで巡行しながら、民たちの心が主に立ち返るようにしました。そして、ユダ全国の町々に裁判官を立てて、民たちを公義で裁判するようにしました。ここで私たちは、裁判はどう言う風にしなければならないのかを知ることができます。

今日の本文「19章6節」を見ますと、『あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。』と記録されています。即ち、裁判は神様を代理する行為である、と言うのです。ですから、裁判をする時には神様の御心と神様の観点で判断しなければならないのです。

それでは、神様の御心と観点はどう言うものでしょうか?これに対して、本文「19章7節」に『7 今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行ないなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。』と記録されています。「不正がなき裁判」をしなさいとは、正義と真理に立って判断しなさい、という意味です。

また「えこひいきがない裁判」とは、一方に偏ってはならないということです。更に、「わいろを取ることがない裁判」とは、わいろは裁判官の目を暗ますからいけないということです。これに対して聖書は、『あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。』(申命記16:19)と記録しているのです。

ですから、裁判は神様に属したものであり、神様に代わって、神様の公義と真理を宣布する行為であることをはっきりと知らなければなりません。




お祈り

私たちのまことの裁判官となられる、わが父なる神様!

この世で行われるすべての裁判が、神様の正義と真理に立った公義の裁判となるように恵みをほどこしてください。そうして、この世に神様の公義が確実に成り立つようにみわざを働かしてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!