■主の素晴らしさを味わってこそ知る
「詩篇 34篇 1節〜5節」 34: 1
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。 34: 2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
34: 3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。 34: 4
私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。 34: 5
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
今日は、ダビデがガデの王アキシュに捕らわれ、死にそうになったので気違いを装い、やっと危機を逃れた時(サムエル記第一21:10〜15参照)、ダビデの心がどうであったかを知ることによって、お恵みを分かち合いたいと思います。
ダビデは、自分の奇跡的な救いに対する証しと誇りが、他の貧しい人々には喜びになると賛美しています。実際にダビデの周りには数百人の貧しい人々が同行していました。彼らは、神様が救ってくださることに対する確信が段々薄くなっていました。そうなるや、ダビデは自分の体験を証ししながら、「私を見て、神様の救いのみわざをほめたたえなさい。」と促しました。
ここでダビデは、イエス・キリストを預言的に象徴しています。実際にイエス・キリストは、ダビデのように艱難と疾病をすべて経験された方です。しかし、気を落として挫折なさらず、結局は救いのドアをいっぱいに開いておかれたことにより、患難で満ち溢れるこの世の中を生きる私たちに、希望と喜びを与えてくださいました。
ですから、私たちは主と共に神様を広大なるお方であると告白しながら、共に御名をあがめなければなりません。聖書の御言葉は理論ではありません。主が自ら模範を見せてくださったのですから、患難に会っている人は神様が究極的に救ってくださることをはっきりと信じなければなりません。
ダビデは、ガデの王アキシュの前で危機を免れることができました。よだれを流しながら狂ったふりをする時、彼は本当に惨めで嘆かわしかったに違いありません。数年前に、神様が預言者サムエルを通して自分の頭に油を注ぎ、それがひげを通して恵み深く流れましたが、今は正反対によだれが自分の顎のひげを通して見苦しく流れていたのです。
イエス様も、全人類の救い主であられ、贖い主であられますが、十字架に架けられた時の姿は、被せられたいばらの冠に刺されて頭から流れる血が顎ひげを濡らし、むちに打たれて裂かれた傷と釘に打ち抜かれた両手と両足から流れる鮮血が全身を濡らしました。そして、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)と絶叫されてから、ついに神様の素晴らしさを味あわれるようになられました。
今日、「どうして私をお見捨てになったのですか...。」と絶叫しながら、泣き叫ぶ皆さんの涙があごを通して滴り落ちるとしたら、明日、皆さんは「神様の素晴らしさを味わってから知りました。」と、証しをするようになることと思います。
お祈り
愛であられる、私たちの主イエス様!
十字架の愛で全人類を贖ってくださり、救いの門を開いておかれたのですから、すべての人々がイエス様の素晴らしさを知ることができるように、導いてください。
イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!
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