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12月21日



■まことの礼拝

「ミカ書 6章:6節~8節」
6:6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
6:7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。




こんにち、数多くの聖徒さんたちが教会に来て神様に祈りを捧げながらも、御答えをいただけない理由は、家庭生活、社会生活をしながら神様に対する礼拝を実践しないからです。今日の本文は、私たちが聖徒として生活する中でどのような礼拝を捧げなければならないかに関して、具体的に教えてくれています。

第1番目に、「公義」を行うことです。共同体生活を営んでいる人間にあって、もっとも必要なのは、「公義」です。公義がなされていない個人や社会は、堕落してしまいます。公義を成すと言うことは、神様の法則が個人生活と社会生活、国家の秩序の中で現れるようにすることを言います。

第2番目に、「慈しみ」を施すことです。「慈しみ」というのは、他人を赦し、憐れむことです。イエス様は、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイの福音書18:35)と言われました。

こんにち、多くの聖徒さんたちが祈りに対する御答えをいただくことができず、絶え間なく苦しみに会っているは、自分は神様から口では言うに言えない赦しをいただいたのにもかかわらず、夫を、妻を、子どもを、父母を、隣人を赦すことができず、憎しみでいっぱいに満たされているからです。

第3番目に、「謙遜」に行うことです。何が謙遜でしょうか?頭をさげ、腰を折ってぺこぺこすることが謙遜でしょうか?そうではありません。聖徒さんの謙遜とは、神様の御言葉を聞いたらその御言葉を信じ、その通りに行うことを言うのです。アダムが高ぶるようになったのは、神様の御言葉を信じ、従順に聞き従わなかったからです。

神様の御言葉を聞いていながらも、逆らうことは謙遜ではありません。神様の御前で謙遜である時にだけ、神様の恵みを受けることができます。

私たちがいくら断食をし、徹夜をしながら、祈っているとしても、生活の中で礼拝を捧げることをしないと、私たちの祈りは事実上、その価値を失ってしまいます。私たちの人生の現場で公義を行い、慈しみを施し、謙遜に行う人生を生きることが、それこそまことの礼拝であり、まことに祈る態度であり、神様のみわざを体験する姿勢であるのです。





お祈り

光と塩となられる、我らの神様!

聖霊様と同行する私たちの人生が、すなわち礼拝となるように導いてください。この世の中で公義を行い、慈しみを施し、神様の御言葉を信じて、謙遜な信仰姿勢を保って、神様の御前に完全な生活的礼拝を捧げる人生を生きるように助けてください。

イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!